佛母寺の由来

佛母寺は、旧の威徳院を再興したものである。

威徳院は山号を金鑚山かなさなさん威徳院いとくいん白蓮寺びゃくれんじといい、高野山こうやさんひじりそう 威徳房いとくぼうげんしょう
天授年間(1375~81)に開創した。足利義満が将軍の時代である。

御本尊は
准胝じゅんでい観世音かんぜおん菩薩ぼさつ

天正九年(1581)の火災により古記録は消失、その後も落雷により堂宇を失うこと度々。
明治新政府の「神仏分離令」「廃仏毀釈」により、20年近く無住(住職が不在)が続き、
廃寺となる。

明治十七年、檀信徒が再興に努力する中、篤信家の江原観一が観音堂を建立し、
明治二十年には近郷・近在の檀信徒の協力もあり本堂・庫裏を再興する。

以来、真言宗の仁和寺より「由緒により、特に準別格本山に昇格す」との証を授与され、
豊山派・高野山真言宗を経て
高野山真言宗 準別格本山 龍蓋山佛母寺(りゅがいざん ぶつもじ)と称す

鐘楼堂「妙音(みょうおん)殿(でん)」の篆額は吉田茂元首相が書いている。

現在、旧金鑚山威徳院白蓮寺の建物としては、金鑚神社境内に大門が残るのみである。
これは総欅造り、十六菊花紋入りの瓦葺で、文化十一年(1814)の建立と伝えられている。