「 1月のお言葉 」
『平凡を倖せとして去年今年』
(へいぼんを しあわせとして こぞことし)
解説
令和三年 明けましておめでとうございます
「平凡を倖せとして、去年今年」
これは高野山真言宗管長・総本山金剛峰寺座主を務められた森寛紹大僧正猊下の詠まれた句です。
平凡だなあ、取り立てて何も無かったなあ・・・という一年は、有ること難し、ありがたいこと。そしてそれが倖せということなのですよ。そういう句です。
4年前にも同じ句をご紹介しました。
昨年、世界中の人たちが共に苦難の一年を過ごしました。
普通であること、当たり前であると思っていたことが、実は「有難きことである」とこんなにも実感したことはありませんでした。
「今年も一年、良い年でありますように」そう新年にお参りしたのに・・・・思いもよらぬ病にかかった、大切な人を見送った等々、思いがけない一大事に遭われた方にはこの「無事であることが倖せ」ということが身に沁みたことでしょう。そうして「なぜ私だけ」「どうして我が家だけこんな不幸な目に遭うんだ」と理不尽な思いを抱えたことでしょう。
森寛紹猊下には、次のような句も詠まれました。
「お遍路の誰もが持てる不仕合」
中高年の方が、リタイアしてからお四国参りをされることも多いようですが、そのお遍路もままならない一年となりました。四国八十八ヶ所を巡拝するというのは、バスや電車が発達した今日であっても並大抵の覚悟ではできません。そしてはた目には幸せそうに見えるお遍路さん、裕福に見えるお遍路さんもお一人お一人はそれぞれ心に抱えた苦しみ、悩み、という不仕合・不幸せを持っているのです。「自分だけがたいへん」ではないのですね。
その遍路修行をしているとき、山坂越える時でも、独りぼっちの寂しい時も、実はいつもお大師さま(弘法大師)が一緒に居てくださるよというのが『同行二人』です。
皆さんが辛い時、悲しい時、苦しい時、どうぞ「南無大師遍照金剛・なむだいしへんじょうこんごう」と唱えてみてください。
「お大師さま、ほんとうに居るんかい?」などと疑ってはいけません。何事も信心からです。皆さまの心の中に、共に寄り添い、歩んでくださるお大師さまは必ずいらっしゃいます。 御縁の皆様の一年が、どうぞ無事で幸せでありますようお祈り申し上げます。 合掌 令和三年元旦
高野山真言宗 準別格本山 龍蓋山 佛母寺 住職 中島隆信